戦争って何だ  植民地って何だ
歴史教育はなぜ必要か

   韓国併合100年のいま、憲法九条と日本の未来を考える

2010.11.23 東京芸術劇場ホール

    

          講師  石山 久男さん

 

Ⅰ、韓国強制併合100年と日本の動き一国民の中で対立する認識

1、日韓知識人共同声明、日韓市民共同宣言   

 2週間ほど前、朝まで生テレビという番組に出演の依頼があって出てみました。あれは政治ショーみたいなところがあって、冷静に憲法の話ができるようなところではないのですが、それでも非常に勉強になりました。与党側の政治家の考え方、感覚というのが、即実感できたのです。それは、軍隊とか自衛隊とかいうようなもの、特に軍隊に対する怖さ、恐ろしさ、危険性を全く感じておられないなということです。軍隊というものは自由に自分たちでコントロールできると思っていて、怖いもの、気をつけなければいけないものだという感覚がほとんどないということがわかりました。私などは、武器を持った集団がそこにいて、しかもアメリカ軍と一緒に軍事訓練をしている、人殺しの訓練をしているのは、それだけで恐怖を感じるのですけれど、そういう感じ方が全くないのだということがよくわかりました。私の向かいに軍事評論家の潮匡人さんがおられました。元自衛官の方ですが、最近「憲法9条は諸悪の根源」という本を出されました。PHPという出版社から出されたものです。PHPというのはPeace and Happiness through Prosperity(繁栄によって平和と幸福を)の略ですが、そんな会社からこのような本が出ているのです。後ろの方にはこんなことが書いてあります。「戦争がなくならないのは、人間が正義を求め、不正を憎むからである。よりよく生きようと努め、悪に立ち向かうからである。その意味では戦争こそ人間的な行為である。その根本を否定する平和憲法から倫理道徳が生まれないのは当然なことである。憲法9条は戦後日本人の人間性を奪った諸悪の根源である。」そして「軍事力は人間にとって最後の力であり、最後の理性である。これを行使するのは国家が行う倫理的な行為である。名実ともに自衛隊を軍隊にすべきである。戦後レジュームから脱却するとはそういうことである。」と書いています。こういう本がどうどうと出版され、こういう方がテレビでコメントされる。日本は自由な国だなと思いますね
 私は特定の政治団体や宗教にかかわっているわけではありません。しかし、私には一点だけ譲れないことがあります。それは人間は戦争をしてはならないということです。戦争はよくないものだということです。この一点だけはどうしても譲れません。最近は「正義のための戦い。民主化のための戦いだ。そういう正しい戦争もある」という考え方が若い方を中心に出てきたりしています。もっとはっきりと「戦争ほど儲かるビジネスはないぞ」と思われている方もいらっしゃる。でも私は戦争をしてはいけない。人間は戦争をしてはいけないんだということをきちっと理解することが理性だし知性だとそう思っています。
 9.11という悲しいテロの事件がアメリカでありまして日本人の方も多く命を亡くされました。その中に、西日本銀行にお勤めだった中村タクヤさんという30歳の方がいました。一年ほど前にニューヨークに赴任したばかりで、数カ月前にご結婚されたばかりの、まさにこれからという方です。彼のオフィスは120階にありましたから直撃を受けてしまったわけです。そのタクヤさんのお父様が新聞の取材に答えておられる記事がいくつか目に留まりました。アメリカはあのテロの後1ヶ月あまりでアフガニスタンに空爆を開始したわけです。その時に、その中村タクヤさんのお父様である中村タスクさんがこんなことを話されています。「あだ討ちができてよかったねと知人に言われたけれど、報復は暴力の連鎖を生むだけだ。せがれは事件に巻き込まれたが、さらに関係のない人たちが命を失うのには耐えられない。日本はアメリカの腰ぎんちゃくになる必要はない。テロの背景にある貧困の解消などの他の手だてを考えるべきだ。」こうおっしゃっていました。私はこれを読んだ時ほんとうに驚きました。まだテロから1ヶ月ぐらい、ある意味では、本当に憎しみや怒りに駆られている最中です。そういうときにこういう発言をされるわけです。この発言をしたのは私みたいに偉そうに口先だけで仕事をしている人間ではないのです。平和主義の文化人のコメントではないのです。まさにご自身の大切な息子さんを亡くされたそのお父様なのです。別のところではこんなこともおっしゃっています。「子どもを奪われることの辛さ、つまり命の重さというものが息子を失ってからより真剣に考えるようになりました。テロリストも国家も正義を語る。しかし関係のない人の命を犠牲にするところに正義などありえない。せがれに私がいるように、どの人にも家族や恋人がいるわけです。そこに思いを抱かずして正義など決して実現できないと思います。私はこちらが真実だと思います。人間は正義のために闘うんだ、だから戦争は最も人間らしい行為であるという人が一方でいる。その一方で、正義のためなどという名目で人の命を犠牲にすることは絶対に許されないという犠牲者のお父様がいらっしゃる。私はこちらに真実があると思っているし、その思いで私たちの憲法9条というものがあるわけです。
 「テロを無くすための特効薬など誰も思いつかないと思うし、妙案も多分ないでしょう。でもないからこそやれることというのは、青くさすぎると言われるかも知れないけれど、人を愛することとか、人の命を尊ぶこととか、それらを一生懸命訴えていかなければ、隣人を愛する、誰の命も大事にする、そこから始めなければ解決はしない。遠回りでもそこから始めるべきだという気がします。というのがお父様の言葉なのです。
 まさに私たちの憲法はそこに原点があります。私たちの憲法9条の根っこには、誰の命をも大切にする、かけがえのない一人ひとりの命を大切にする、その命に対する畏敬の念、命に対する敬い、大切にしたいという思い、そして私は愛の気持ちが根底にあると思っています。

2、戦後日本は朝鮮植民地化の問題の清算にどう対処ししてきたのか

  結論から言えば対処して来ませんでした。この問題を併合100年に当たって考えなければいけ
 ないのではないかと思います。
  一方、右翼勢力は韓国併合は正当、合法、有効であり、朝鮮併合は朝鮮の近代化に貢献したの
 だという議論を続けています。例えば「新しい歴史教科書をつくる会」は『日韓併合は日本の誇り』というパンフレットを発行、「つくる会」教科書も、「坂の上の雲」も、ロシアが日本を植民地化する危険があったのだから、対抗するため韓国併合は必要だったという主張を展開しています。植民地というものはもう世界中からほとんどなくなっています。実質的にはある国の支配下にあるという要素が強いところはありますが、国の主権を奪われた植民地という形のところはほとんどありません。国際連合でも「植民地化をしてはならない」と宣言しています。そういう時代の中で、日本が韓国を植民地化した併合条約が正当であるとか、近代化に役立ったとかと主張するのは時代遅れで、世界の笑いものになるような話なのですが、そういうことがまだ日本では起こっているというのが実態なのです。
 8月に菅首相談話が発表されました。談話の中では「100年前の8月、日韓併合条約が締結され、以後36年に及ぶ植民地支配が始まりました。…当時の韓国の人々はその意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。…この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」として文化財の引渡し、遺骨返還支援には触れました。つまり、事実上強制的に行われたものだというところまでは認めたわけです。しかし、菅総理大臣の談話の中でも、実は今なお問題として残されていながらまったく触れていない問題がたくさんあります。触れていないのは、併合条約が無効で不当であること、「慰安婦」や強制連行などの戦後補償の問題、政府は国家間で解決済みであるという主張を未だにしているわけですから、この問題にも全く触れません。在日コリアンの問題、これも植民地化の精算という問題の中でも大きな問題であるのですが、在日コリアンの処遇の問題にも触れていません。北朝鮮との関係改善・国交樹立・朝鮮半島の平和などにも触れていません。私に言わせれば欠陥だらけの談話だと言わざるをえません。それが、残念ながら併合100年に当たっての日本の中の状況であるわけです。

Ⅱ、韓国強制併合の真実を知ろう

 こういう状況を私たちが克服していかなければ、憲法九条を本当に確固としたものとして、アジアと日本の平和に活かすことにはなっていかないのです。私たちがまず知らなければならないのは韓国の強制併合の実態、その真実はどういうものか、そしてそれに対して、戦後日本は、戦争責任や植民地責任という問題とどう向き合ってきたかを、しっかり認識しておかなければならないと思います。

1,明治政府の対外侵略のはじまり

 「江華島事件」のことは高校の教科書には一応名前だけは書いてあるのですが、記憶にないという方も多いのではないかと思います。中学の教科書には書いてありません。
1875(明治6)年、朝鮮王朝の首都ソウル(当時は漢城)近郊の江華島(首都を攻撃を防ぐための重要なポイントとなる島で朝鮮王朝の守備隊が常駐している)周辺の領海に、日本の軍艦の雲揚号が無断で侵入して測量を始めました。朝鮮側は驚いて警告をしたけれども動かないので砲撃をします。日本の軍艦はそれに反撃し、江華島の周辺の島に上陸して占領してしまったのです。そして翌年1876年には「日朝修交条
約」という不平等条約を強制的に結ばせました。当時日本は欧米諸国から不平等条約を結ばされていました。そのひとつは輸入品に関税をかける時に、自国で関税の率を決めることができないこと。日本の場合は外国からの輸入品に5%の関税しかかけることができませんでした。ところが日本が朝鮮に押しつけた「日朝修交条約」というのは、3港(釜山、仁川、元山)を開港して日本人の自由貿易を承認し、関税は無税とするというものです。
 もう一つは日本人の犯罪の裁判権は日本に属す、つまり朝鮮側では裁判ができないというものです。今の日本で言うなら「日米地位協定」です。この協定では、米軍が公務中に侵した犯罪は日本側に裁判権がないわけですが、それと同じです。朝鮮の場合は公務中に限らず、いかなる場合においても裁判権は朝鮮にはないというものですから、「日本が欧米から押しつけられたものを上回るものを朝鮮に押しつけたわけです。
 しかし、まだ明治6,7年の段階ですから、日本は工業が発展していて輸出する商品がたくさんあるという状態ではありません。当時の朝鮮は鎖国状態だったので欧米諸国は朝鮮に入り込んで品物を売りつけることはできませんでした。ところが日本が朝鮮に港を開いたので、日本を通せば朝鮮に輸出をすることができることになったわけです。欧米製品を日本経由で朝鮮へ輸出するという構図です。言い換えれば欧米諸国の手先になって日本が朝鮮を開国させたということになります。この江華島事件と日朝修好条約が朝鮮侵略70年の第一歩となりました。


2、東学農民戦争を機に朝鮮に介入、日清戦争へ

 朝鮮と清国の間には宗族関係、朝鮮の上位に清国があって、朝鮮の王は清国の承認を得て王になるというような形になっていました。植民地のように内政から外交までを全面的に支配するという形ではなく、一応朝鮮は独立国でした。日本は江華島事件の頃から朝鮮を日本の支配下に組み入れようとしていきますが、そのためには清国を追い払う必要が出てきて、日本と清国の間にさまざまな対立が繰り返されるようになります。
 1894年に、甲午(東学)農民戦争がおきます。これは大規模なものだったので、朝鮮王朝では鎮圧できなくなり、朝鮮政府の鎮圧要請で清が派兵します。日本も対抗して派兵します。こうして清国の軍隊と日本の軍隊が朝鮮の領内に入ってくるということになって、農民軍はこのままでは朝鮮そのものが外国の配下になってしまうかもしれないと考え、政府と和解をします。政府は両国軍に撤退を要求しますが、清国は撤退したけれども日本軍は撤退を拒否します。
 さらに、1894年7月23日に、日本軍が朝鮮王宮に進入して占領し、王に対して、清軍追放の軍事行動を日本軍に要請するように脅します。こうして7月25日に「清を追放し朝鮮の独立を守るため」という大義名分のもとに日清戦争が開始します。これが中国侵略50年戦争のはじまりです。
農民軍は日本に朝鮮が侵略されるとして再蜂起、第二次農民戦争がはじまります。朝鮮王朝へではなく日本軍に抵抗して蜂起し、日本軍が架設した軍用電線の切断などを行います。
  日本軍はこれにはかなりてこずって、「農民軍はことごとく殺戮せよ」という命令を出します。日本はこうして朝鮮領の中で、片や清国軍と戦争をし、片や農民軍と戦争をしていました。韓国朝鮮から言わせれば、これは第一次日韓戦争であるということになります。つまり日本と韓国との戦争でもあったということが言えるのです。「ことごとく殺戮せよ」の方針によって最初のジェノサイドといわれるように、数万人が虐殺されるような事態が起こったと言われています。
 1895年4月、戦争は日本の勝利に終わって、「下関条約」が結ばれ、清は朝鮮の支配権を放棄しますので、ここで日本の朝鮮に対する支配権が確立することになります。ところが朝鮮王朝の政府内にも、朝鮮が日本の支配下に入るのは困ると考える人たちも多く、王朝はロシアに援助を求めようとします。そこで王朝の中に親ロシアという流れが出てきます。日本にとってそれは邪魔になるわけです。そこで、1895年10月に日本公使三浦梧楼らが王宮に乱入して、親ロシア派の王后閏妃を虐殺してしまいます。(閔妃虐殺の跡はソウルの景福宮の一隅に展示してあります。)それはますます日本に対する反発を強めることになり、結局親ロシア政権が成立して、1897年に大韓帝国が成立します。そこから日本とロシアの間で、朝鮮支配をめぐって対立することになります。

3、日露戦争は敵国防戦争だったか一韓国併合の強制へ

 日本とロシアの対立はあくまでも、朝鮮と、朝鮮と北を接する中国東北部である「満州」の支配権をめぐる争いでした。ところが、今でもそうですが、日露戦争はロシアからの「防衛戦争」だったという主張が繰り返されています。司馬遼太郎の『坂の上の雲』もそういう主張に立って芝居ができ上がっています 。もし日本が朝鮮を占領して支配しなければ、日本はロシアの植民地にされてしまったということを主張するわけです。「つくる会」教科書もそういう主張です。
 日本にとっては、朝鮮と「満州」に対する支配権を奪って、朝鮮に対する支配を安定させる目的でおこなったのが日露戦争です。当時のロシアの政権の中には、満州は支配下に置きたいという考えはあるわけですけれどもだからといって日本と戦争をしようという勢力は少数派でした。朝鮮の支配権を日本と争って朝鮮をロシアの支配下に置こうとする意見はきわめて少数でした。いわんや、日本の植民地化は論外で、日露戦争を日本の防衛戦争と言うことはできないわけです。日本は朝鮮から親ロシア派を排除し、北に接する「満州」を支配して朝鮮支配を確立することが目的でした
けれども、韓国の政府の中には、新ロシア派はかなり強い勢力を持っていました。結局、武力で韓国を併合するしかないという方向に日本は向かっていくわけです。日口開戦と同時に、そういった工作が次々に進められていくことになり、日本は朝鮮支配をすすめていきました。
 大韓帝国はロシアとの間に中立宣言を出していましたが、1904年、日本は、日韓議定書締結と同時にそれを無視し、日本軍の軍事行動の自由、基地設置の自由、土地収用の自由を大韓帝国に承認させます。そして、第1次日韓協約で、日本人の財政顧問と外交顧問を韓国政府におくことを韓国政府に認めさせます。
 1905年には第2次日韓協約(乙巳〈いっし〉条約)を締結させます。これが韓国併合に直接つながるわけです。伊藤博文が軍司令官とともに韓国閣義に出席し締結を強要したのです。これによって韓国の外交権を奪い韓国統監府を設置、韓国を保護国化したのです。今問題になっている日本の竹島領有宣言はこの直前です。第1次日韓協約で外交顧問というものが韓国政府に置かれていましたから、韓国は独立した外交権を持っていない状況ですから、日本と韓国が対等な立場で交渉して竹島の領有は日本であるということを認めるような状況ではなかったのです。そういう中で竹島の領有宣言を日本が出したわけですから、これは日本側の一方的な領有宣言であるということができますし、韓国側から見れば韓国併合に到る第一歩といわれても仕方がない問題です。
 1907年、韓国皇帝はハーグ平和会議に特使を送り、保護条約の不当性を訴えます。これに対して日本は怒って皇帝を退位させ、第3次日韓協約を結ばせました。この協定により内政の実権を日本が握ることになり、政策決定には韓国統監府の同意を必要とするようにし、さらに秘密協定で韓国軍隊を解散させてしまいます。
 日本が韓国に対する支配を強めていくことに対して、義兵闘争が始まります。これには解散させられた韓国軍兵士も加わって抵抗運動が大きくなっていきます。これを押さえつけて、(第二のジェノサイド)、1910年の韓国併合が行われ、朝鮮総督府が設置されて韓国の政治を行うことになります。朝鮮総督には文民である政治家ではなく、陸海軍の大将が任命されていました。そして日本軍と憲兵警察が武断政治と呼ばれる強い弾圧を加えることで、韓国の人々の抵抗を押さえつける政治が行われました。土地調査事業を行い、土地の所有権を近代化するという名目で農民に土地の所有権を申告させますが、義務教育も満足に出ていないので書類をつくることもできない人々が多くいました。また村には共有地があり、誰のものかはっきりしないということで申請ができなかった土地を政府が没収しました。それらの土地はやがて東洋拓殖会社という民間企業に払い下げられます。韓国の農民は土地を失って、日本などへの移住をせざるを得なくなります。
また、朝鮮語の新聞雑誌出版の制限、日本語普及など同化教育を行っていきます。
1919年 3・1独立運動という抵抗運動が起こります。ソウルのパゴタ(タプコル)公園で独立宣言書発表し、この運動は全土にひろがり、日本軍の弾圧で7500人以上の死者が出ます。堤岩里(チェアムリ)では教会に村民が集められて、協会ごと焼き殺してしまうという虐殺が行われました。(第三のジェノサイド)この時から朝鮮の独立運動は本格的に始まり、1919年には中国の上海に大韓民国臨時政府がつくられます。亡命政府ができるわけです。これに驚いた日本政府は、武断政治から文化政治に変えるようになりますが、朝鮮語の新聞の発行をいくらか緩やかにするとかという程度で、結局はこれを通して朝鮮人の中に日本に協力する分子をつくり出すということになります。植民地支配は武力で押さえつけるだけではできず、住民の中に協力者を育てなければ基本的にできないのです。経済的な面では、前年に日本で米不足に陥り米騒動が起こります。そこで朝鮮で産米増殖計画をたて、その米を日本に移出することにします。朝鮮人が食べる米はむしろ減ってきます。土地を失う農民の日本への移住は1930年には30万人に(1920年には3万人)に達します。


4、朝鮮支配から満州事変、日中戦争、アジア太平柵争へ

 もともと朝鮮族が多く住み、自治地区になっている中国東北部にある間島地方に、朝鮮独立運動の闘士達が移り住んでそこを運動の根拠地にしていきます。そこで日本は間島地方を中国から切り離して朝鮮に編入することを計画しますが、それは無理だということで、朝鮮支配を安定させるために「満州」支配を企みます。そこで、朝鮮半島の38度線を境にして南には朝鮮軍、北には関東軍が置かれていましたが、朝鮮軍、関東軍は共謀して柳条湖事件(鉄道爆破事件)をおこし、それを口実に満州事変をおこすわけですが、間島地方で大きな蜂起が起こるのは1930年、柳条湖事件は翌年の31年ですから、明らかに関係があるわけです。言い換えれば、朝鮮を植民地として支配した、その支配を続けようとすると、そのまわりに日本の領域を広げていかなければならなくなるということになったわけです。それで満州事変をおこして、その翌年に「満州国」という傀儡政権をつくります。すると当然現在の中国、当時は中華民国との間に大きな摩擦をつくり出します。その中で満州だけを支配していたのでは、満州の支配が上手くいかないということになって、中国全域を支配しようということで、日中全面戦争に発展していきます。当初日本は中国軍は弱いからすぐに片づくと思っていたのですが、やはり中国の民衆の抵抗が根強く解決しません。いつまでたっても勝利のめどが立たないわけです。しかも戦争に不可欠な石油が不足してくる。南方に進出していかないと戦争が続けられないということになって、これがアメリカやイギリスとの対立を引き起こすことになり、やがてアジア太平洋戦争になるわけです。ですから1910年の韓国併合、そしてそこに至る過程は、その太平洋戦争の敗戦に到る日本の戦争の大元を作り出したと言えるのです。韓国併合がなければ、その後の戦争もなくて済むとも言えるわけです。
 日本の軍隊が朝鮮から満州、南方へと戦線を広げて行く中で、日本軍の「慰安所」が1932年に上海で設置され、1937年に日中全面戦争が始まって、その年の暮れの南京虐殺事件で多くの性暴力がおこると、「慰安所」の設置がさらに拡大し、朝鮮人女性が各地で強制的に連行されていきます。朝鮮の中では皇民化政策が進められて、神社参拝、皇国臣民の誓詞、創氏改名、日本語使用の強制などが行われます。
1944年から朝鮮にも徴兵制が敷かれ、朝鮮人が日本軍の兵士として動員をされて、アジア太平洋各地に派兵されていきます。その中で日本人の一員として捕虜虐待などによる戦犯として処刑されるという悲劇も起こってきます。さらに兵隊にならない人たちも、国民徴用令適用による強制連行が行われ、日本の工場、鉱山、地下壕掘削に動員されました。同じ頃には中国でも強制連行が行われました。韓国の併合はさまざまな不法、不当、大虐殺といったことを重ねながら進められてきて、その矛盾がさらに戦争を拡大していかざるをえないところに追い込んでいった、そのひとつのキ−ポイントが韓国併合だったということになるのではないかと思います。韓国併合は日本の近代史を見るうえでは、どうしても抜かしてはならない大きな問題だと思います。同時にその問題が後に残されて解決されていないのが実態なのです。


Ⅲ、戦後日本は戦争責任・植民地責任をいかに清算してこなかったか

1、日本の敗戦と朝鮮の分断

 日本の敗戦によって朝鮮半島には支配者がいなくなりました。1915年ごろから海外において朝鮮の独立運動が密かに進められていましたから、そういう人々が朝鮮に戻って朝鮮民族独自の国家樹立の動きがはじまります。1945年8月15日に建国準備委員会ができます。独立運動家達は政治的には共産主義者から民族主義者まで幅広い人たちがいろいろなグループを作っていたのですが、建国準備委員会は、その人たちが立場を超えて朝鮮の国家をつくろうとまとまったわけです。9月6日には朝鮮人民共和国という国が建国宣言をします。それがそのままいけば今日のような分断国家ではなく、独立国として数千年の歴史を持つ朝鮮という国が復活する筈だったのです。しかし米ソ対立のはじまりのなかで、アメリカとソ連、そして朝鮮の中にもそれぞれの国に同調する勢力があって、その中で対立や分裂が深まり、独自の建国の動きは挫折します。
 北緯38度線(日本の関東軍と大本営の管轄境界線)を境に米ソ分割占領をすることになります。
 その中でも統一国家への努力は続きますが、南北それぞれの単独国家指向の勢力と米ソが結びついて1948年に、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国があいついで成立、分断が固定化してしまいます。 分断と戦争の悲劇の責任はこの時点では、やはりアメリカとソ連の責任が大きいのですが、しかし、そもそもを辿れば日本が1910年に数千年続いた歴史ある韓国の政権を廃滅させてしまったから、38度線を境にしてアメリカとソ連が入ってきて分割するという事態を招いたわけですから、国家を敗滅させた責任は日本が負うべきではないかと思います。


2.朝鮮戦争と日韓・日朝関係


 北が武力統−をめざして1950年、38度線を越えて南へ進撃し、朝鮮戦争になります。この戦争は大変な悲劇をもたらします。はじめは北朝鮮が南下していきますが、次に国連軍という名のアメリカ軍が南朝鮮の側に参戦して北の国境の近くまで押し返し、今度は中国の義勇軍が北朝鮮軍に参戦してまた現在の38度線のところで休戦になります。戦線の最前線が往復することになります。そのために同じ民族でありながら敵の分子だということで相互の虐殺も行われて、戦死や虐殺などで失われた人命は軍人・民間人あわせて約400万にのぼりました。北と南に離散させられた家族は1000万人にのぼると言われています。
 日本はアメリカ占領下ではありましたが、支配層は積極的に朝鮮戦争に加担し韓国を支援して分断を推進する立場に立ちます。
1965年に日韓基本条約が成立します。実は1951年に日韓会談がはじまるのですが、日本側がしばしば植民地支配を正当化たり、近代化に貢献したなどいう発言をするために妥結しなかったのです。しかし、アメリカがベトナム戦争を本格化した1965年に、アメリカの韓国援助を日本に肩代わりさせる目的で、アメリカが主導して条約を妥結させたのでした。ですから、併合条約はいつから無効になったのかということにも結論がでないまま条約は結ばれました。そして植民地支配に対する謝罪や補償はここでは一切触れられませんでした。この条約の中では、韓国を唯一の合法政府と規定しましたから、北朝鮮(朝鮮民主主義共和国)を合法であるとは認めないということで、ますます分断を推進し、北朝鮮敵視を継続することになります。
 北朝鮮との関係では、1991年に日朝交渉が開始されます。この年、韓国・北朝鮮が国連に同時加盟します。ですから国際的には朝鮮民主主義共和国は合法的な政府なのです。そうするとそれを無視するわけにはいかないので、この年から日朝交渉が始まりますが、国交正常化には到りません。。
 2002年に小泉首相が行って日朝平壌宣言が出され、国交正常化が行われるかに見えたのですが、国交正常化はいまだ実現していません。
 こういう形で南北分断を固定化することに日本は加担してきました。そのことが朝鮮半島の緊張を大きくして平和確立を妨げてきた、この朝鮮半島の問題が解決すれば、日本の憲法九条が生きる、そういう東アジアができ上がっていくわけです。軍隊を持って敵対しなければならない状況がなくなるわけですから。そういうアジアの平和的な環境をつくるということが妨げられて、そのことによって緊張関係にあるアジアでは、平和的話し合いでは無理だから軍隊を持って武力を持つべきだという議論、武力による平和論が大きな力を今でも持っているわけです。Okいな和の吉門田は海兵隊は抑止力だいうふうな議論になるわけです。
そういう関係で9条改憲の動きを促進してきたことも表裏の関係になっているわけです。

 在日コリアンの問題

 在日コリアンは現在60万人おられますが、その存在そのものが朝鮮半島の植民地化によって朝鮮で生きていかれなくなった人たちが日本にやって来る、あるいは強制連行でやってくるというところから生じた問題ですから、存在そのものが日本の責任によって生まれているわけです。
しかし、日本がポツダム宣言を受諾したことによって、日本から解放されたわけですから、本来なら連合国民と同等の扱いをしなければいけないのに、それをしなかった。それは朝鮮半島が米ソ対立の最前線に立たされたため、在日コリアンを反共治安対策の対象としてみるというところから、連合国の人間として扱うのではなく日本国内の治安問題として扱ったということになります。
その結果、1947年から在日朝鮮人は外国人と見なされて外国人登録令の対象になります。
1948年から49年にかけて、在日朝鮮人の方々が民族教育をするためにつくった朝鮮人学校を閉鎖させるという動きがあります。
1952年にはサンフランシスコ講和会議がありますが、本来なら南北朝鮮を参加させるところを、南北朝鮮を参加させませんでした。そして、その平和条約発効とともに、在日コリアンの国籍選択権を認めず、一律に日本国籍を奪いました。47年からは朝鮮国政になっていましたがそれ以前は日本国籍を持っていたのです。この時から在日コリアンの国籍をどうするのかということが、問題になって1952年の段階では大韓民国との国交も正常化していませんでした。そういう中で、国ではなく地域を示す記号としての「朝鮮」籍ということになりました。
1965年に日韓基本条約が結ばれて、条約にもとづく協定永住権の登録が開始されます。ようやく永住権取得者にだけ国民健康保険が適用されることになりました。しかし協定永住権を登録するには、自分は大韓民国の国民であるということを申請しなければなりませんでしたので、当時軍事独裁政権でしたから大韓民国の国民にはなりたくないという人がいたわけで、そういう人は申請しませんでした。
1982年から朝鮮籍、台湾籍の人も特例永住が認められることになりましたが、それは日本が難民条約を批准した関係です。協定永住権には25年という年数の制限があり、25年後にはもう一度競技することになっていましたがその期限が1991年でしたので、その機に協定永住と特別永住を一本化し、全部特別永住にしました。それでも社会保障、軍人恩給、被爆者補償、就職差別、公務員採用制限、地方参政権などに課題を残しています。

4、未解決になっている戦後補償問題

 サンフランシスコ平和条約では原則として対日賠償請求を放棄したわけですが、アジア諸国はそれを納得できないで反発、その後二国間条約でミャンマー、フィリピン、インドネシア、南ベトナムには賠償として支払い、マレーシア、韓国などには経済協力として支払い、個人補償にはあてられていません。そういうことで、1990年以来、韓国、中国、インドネシア、香港などから「慰安婦」、強制連行、虐殺、戦犯処刑、財産被害などで個人補償を求めて提訴されますが、日本政府は国家間の条約で決着ずみと主張して、裁判では被害の事実は認定されるが、補償には応じられないとして却下している現状です。
それに対して特に「慰安婦」の問題では、国際的な決議がアメリカ、オランダ、カナダ、EU、韓国、台湾、フィリピンではそれぞれの国会で、日本に対して
 ①事実を認めること ②謝罪すること ③補償を行い可能な限り被害を回復すること ④事実に
 反する虚言暴言に対し毅然と公式に反論すること ⑤再発防止のため事実を正しく教育することという内容の決議がされています。直接「慰安婦」の被害者のいない国でも決議されています。
 その目的は戦争による人権侵害とりわけ女性の人権侵害はまださまざまな形で残っているから、人権侵害をくりかえさないため、さらには人権侵害のもとである戦争そのものをくりかえさないために過去の問題に決着をつけなくてはならないというのが、今の国際社会の標準なのです。よく韓国や中国に対していったい何度謝れば済むんだということを言われることがありますが、日本は謝っているように見えるけれども,実は本当の意味では謝っていないのです。謝罪という言葉は絶対に使っていないのです。「おわび」という言葉だけです。補償も行っていません。右翼の人々が「慰安婦は商売人だ」とか「事実に反する虚言、暴言にたいして政府は毅然として公式に反論せよ」などと主張しています。「慰安婦」の問題は一時教科書に掲載されましたけれども,これも「つくる会」などの攻撃で今は中学の教科書には載っていません。謝るということが、国際的な決議で言われている五つの決議がきちんと行われれば、被害国の人は日本がきちんと反省をして謝罪をしたというふうに思うと思うのです。その時に賠償の金額うんぬんという問題ではないのです。こういう態度をきちんと示すことが求められているのです。

5、なぜ戦争責任・植民地責任はあいまいにされたのか

 一言で言うとアメリカが日本をアジアに対する拠点にするために、日本には民主的な勢力が政権を握るのを嫌がり、保守的な旧支配層の人々を長く政権につけるようにしたということです。そういう人たちが政権についている以上、戦争責任や植民地責任について明確に謝罪をしたり、責任を認めるということはしないわけです。そういうアメリカの戦略と、それに呼応した日本の天皇を先頭とする支配者の人たちが責任をずっと曖昧にし続けてきたということが大きいと思います。ただ今日戦争認識や植民地認識については、国際社会の動きの中で一定の変化があることは確かです。
 1965年の日韓基本条約では韓国併合についての言及はなかったのですが、 1982教科書問題での宮沢官房長官談話では、「我が国の行為が韓国・中国を含むアジアの国々の国民に多大の苦痛と損害を与えたことを深く自覚し、二度と繰り返してはならないとの反省と決意・・・」とありますが、時に90年代に入ると1993年「慰安婦」問題での河野官房長官談話は「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。…数多の苦痛を体験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。…われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような間鹿を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。」
 1995年の戦後50年での村山首相談話は「植民地支配と侵略によって、多大の損害と苦痛を与えたことに痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」
 1998年の日韓共同宣言では、「韓国国民に対し植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、痛切な反省と心からのお詫びする」
 1998年の日中共同宣言では、「中国への侵略によって中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、深い反省を表明」
 2002年の日朝平壌宣言では、「過去の植民地支配によって多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのおわびを表明」
 というように、謝罪ではなく「おわび」を表明し、植民地支配も認めるようになりました。これらの政府見解について小泉首相、安倍首相もそれを継承し否定しないと表明してきました。今日の国際社会の中で、これを否定することは日本のいかなる首相もできないようになっているということなのです。「慰安婦」問題の国際的な決議もそれをよく示しています。しかし、それでは日本の国民全体が「植民地支配だった」ということを認識しているかというと残念ながらそういう段階まではいっていません。まだ国民全体の認識の中では曖昧ですから、ですから「つくる会」の人たちがいろいろ言う余地があるということなのです。これが今の日本の現状です。この現状を乗り越えて武力による平和という考え方を克服していくためには、どういう歴史を学ばなければならないかということです。
①過去の侵略戦争と植民地支配の事実についての歴史
②過去の侵略戦争と植民地支配をどれだけ克服し精算してきたかの歴史
③「武力による平和」「核抑止力による平和」を克服し平和を実現しつつある現代世界の歴史
アセアンとか東南アジア友好協力条約とか、あるいはEU,中南米カリブ諸国共同体などなどGあたくさんできていて軍事同盟はもう世界の中で本当に少なくなっているのです。世界は武力による平和論を克服してきているのです。あるいは核抑止論を克服してきているのです。Sおういう現代社会の歴史をきちんと認識すること、この三つを私たちがきちんと認識することでこういう問題を克服していくことが憲法九条を守り生かすということにつながっていくのではないかと思います。そのためにはそれに対する逆流として頑張っている新しい歴史教科書をつくる会などの逆流を許さず、そういう教科書を子どもたちに渡さないようにしっかり頑張らないといけないと思いますが、来年は中学校の歴史教科書の採択の年になります。春から夏にかけて各地域で大きな運動が展開されることになると思いますが、そういう中でこの教科書を採用させないように、そういう運動を進めて、それが成功を納めていくことになれば、そういうひとつひとつの積み重ねが国民の認識を変えていくことにつながっていくと思います。